2021-06-02 第204回国会 参議院 憲法審査会 第4号
国際連盟脱退、一九三三年もですけれども、国民投票で正当化しています。そういった形でどんどん自分の地位を国民投票で正当化していったという歴史がありますので、実はやっぱり国民投票には警戒的な歴史があります。今ドイツの憲法、グルントゲゼッツ、基本法ですけれども、一切国民投票はやられていません。
国際連盟脱退、一九三三年もですけれども、国民投票で正当化しています。そういった形でどんどん自分の地位を国民投票で正当化していったという歴史がありますので、実はやっぱり国民投票には警戒的な歴史があります。今ドイツの憲法、グルントゲゼッツ、基本法ですけれども、一切国民投票はやられていません。
そして、我が国は、国際連盟脱退以来、条約をたがえたことは一度もないのですよ。 そして、合衆国が同意しない限りは、今の協定の内容がそのまま残るのですよ。わかっていますね。そして、合衆国の同意がないということであれば、今のがこのまま残るか、もしくは日本政府として一方的に協定を破棄するか。そうすると、条約法条約の世界に移るんですよ、これは。
したがって、一九三三年に日本は国際連盟脱退したわけでありますけれども、WTOを脱退しない限りは、これは国際的な決まりとしてできないことをしようとおっしゃっている。したがって、国際的な約束として、日本がWTOを脱退して、そして勝手にやるというんであれば、ああいう一兆円の支払を不足払いとしてやるということも可能かもしれませんが、それはおよそできない。
例えば、日本の国際連盟脱退という、こういう事態が一九三三年だったと思いますが、あります。あるいは、日本を盟主とする大東亜共栄圏の建設、こういったものはその典型であったのではないのか。つまり、国連、国際連盟脱退のときに松岡洋右外務大臣はもう非常に格好良かったわけですね。そして、日本に戻ってきて、日本の民衆によって拍手喝采を受けるわけですね。
また、明治憲法は一八八九年制定ですが、パリ不戦条約は一九二八年、ロンドン軍縮会議は一九三〇年、満州事変が一九三一年、国際連盟脱退が一九三三年。これら年表からもわかりますように、明治憲法は戦争が違法と国際社会が合意形成する四十年も前に成立しているため、不戦、非戦の思想を盛り込むことは無理であったろうと考えます。
中には、松岡洋右の国際連盟脱退と同一視する歴史観、歴史認識を有している人もいます。これは全くの誤りであります。むしろ、日米関係の重要性を考えれば考えるほど、率直な日本の気持ちをアメリカに伝えた方がよりベターなのであります。 このことをアメリカ側が最優先分野としている自動車・自動車部品を例にして考えてみたいと思います。
三一年の満州事変、そして三三年の日本の国際連盟脱退でございました。 今回の湾岸紛争との類比で似たようなケースといいますと、これはその次に起こりましたイタリア・エチオピア紛争がこれに似ているのではないかと私は考えるわけでございます。すなわち、イタリアとエチオピアの間に起こりました紛争、これは一九三五年に武力紛争に発展する。
だから国際連盟脱退というふうな孤立無援の状態をみずからつくり出してしまいました。その結果がどうであったかということは歴史の示すところでございます。だから、私といたしましては、そういう意味で私の認識を先ほど申し上げた次第であります。
タカ派だとか強腰外交だとか、これは違いますけれども、何か受けて立つとか、国際連盟脱退したことがあるんだとか、何かおっしゃる偉い政治家がおられるわけですよ。 〔委員長退席、理事北修二君着席〕 しかし、私はもうそういうようなのは一番危ないと思うんですね。だから弱腰くらいがちょうどいいと思うんです。しかしこれは屈辱的になっちゃ困るんですね。国民が少なくともそう思ったらえらいことになるんですよ。
○木本平八郎君 それで、外務大臣にお伺いしたいわけですけれども、今後この問題をほうっておくと私は、非常に極端な言い方ですけれども、現在日本は開戦前夜にあるんじゃないか、あるいは下手なことをすると国際連盟脱退のああいう局面に押しつけられていくんじゃないかという感じさえするわけですね。
現在の状況は昭和七年の国際連盟脱退のときに酷似していると。もうこれは戦争へ入っていったあのときと酷似しているということを危惧しておりました。こういう意味から売上税等は海外均衡政策にとっても障害となり矛盾するという、この点に対してどのようにお考えになるかお聞かせいただきたい。 それから日本型売上税で日本産業はどう変わるか、これは混乱は避けられないと思います。
時あたかも金融恐慌が起こり、ことに農村の疲弊こんぱいはその極に達し、また、満州事変、上海事変、五・一五事件などを契機として政党の衰退は著しく、さらに、国際連盟脱退により国際的に日本の孤立化が進む中で二・二六事件が起こり、軍部の政治関与はいよいよ露骨となり、中国大陸進出の大勢は、だれしもこれを阻止し得ない状況となりました。まさに、わが国の運命を左右するに至った激動のときでありました。
○矢追秀彦君 じゃ、もう時間ですから、最後に、厚生省がお見えになっているのでお伺いするのですけれども、七十号と七十一号ですね、これがまだ批准されておりませんけれども、これの過去の経緯ですね、国際連盟脱退時のため、あるいは戦後の状況下においてできなかったわけですけれども、それにしても今日までかなり日がたったのにどうしてまだ批准されていないのか、その経緯と理由、それから今後どのように対処されていくのか、
そうしたときに、松岡さんは、得々として国際連盟脱退の話をされた。陛下は途中で渋面をつくられた。しかし一言も言われない。引き下がった宮内大臣が町村さんを呼んだ。秘書課長来いと。行ったら、真っ青になって身をふるわせながら、国の滅ぼす者は松岡洋右、平沼騏一郎、近衛文麿、こう言って涙を流さんばかりにして町村さんに教えたという。いま、三国軍事同盟のときのあの新聞の状態を見てみなさい。
○説明員(高島益郎君) 現在の国際水路局と戦前ございました国際連盟との関係がございまして、日本が国際連盟脱退後、国際連盟との関係に基づいて水路局を脱退することになったというのが実情でございます。
(拍手) 昭和五年の第十七回、昭和七年の第十八回総選挙では、立候補いたされましたが、善戦むなしく落選の苦杯を喫しました、この間、わが国は、満州事変の勃発、国際連盟脱退等の問題に直面し、国歩艱難な時代にあって、君は、労働争議、農民運動にこん身の力を傾けたのであります。 昭和十一年の総選挙で無産政党が躍進した際、君も最高点で当選して、六年ぶりに政界に返り咲きました。
私は、今日ただ中共を国際連合から締め出しておけばよいという方針をとることは、何となしに往年の日本の国際連盟脱退後の状況を思い出さざるを得ないものがあるような気がいたします。
さきには日本の国際連盟脱退に際し、棄権をしてわが国を事実上支持する態度をとり、また、第二次大戦中に、一時日本と軍事的な同盟条約を結び、日本軍の駐留を許しましたが、これは日本の軍国主義の強要によった唯一の例外でありました。中立政策は、欧米各国の帝国主義、植民地主義の入り乱れたる東南アジアの中心に位置し、国力も伴わない後進国としては、まことに賢明なる道であったといわねばなりません。
当時日本は国際連盟脱退に伴って国際条約機構からは抜けておったときの条約でもあるわけです。しかしながら、日本が昭和二十六年に国際労働機構に復活するときにおける審議記録をひもといてみますと、非常に私たちに考えさせられる点が多いと思います。このとき、日本の加入申し込みに対しまして、世界の各国からいろいろな質疑が出ておるわけです。
を離縁する意思もないのに、こんなことがお前にわからないくらいなら、このことを聞かないくらいならもう別かれるぞという、離縁するぞというようなことは、一種の何というか、メタファーとして使うことがあるわけでございまして、そういうふうな、いわば、しからば軽率な気持でそんなふうにとれる表現をしたことはけしからぬじゃないかと、その点をおしかりになれば一言もございませんけれども、一連の私の考え方が、まさしく国際連盟脱退